昭和52年12月16日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
気を緩めると直に、直ちに後へ戻ると。なかなか燃えておる時には、いよいよ有難いのですけれども、そこは生身を持っておる人間のことですから、燃え続けるというわけには参りません事もございます。けれどもそこは天地の親神様ですからね。寛大ないわば見方をして下さり、出来んところは出来たかのように、おかばい下さって信心をいよいよ、分からせて下さろうとする力を与えて下さろうとする働きがあります。これは親のようですから、這えば立て立てば歩めの親心と。
親心と言うのはそんなものなんです。ですからまた失敗をしたとかね。また信心を緩めたとかと言うて、いちいちそれを取り上げて、まぁお気付けを頂くという様な事ではない。そこをおかばい下さりながら、より本当な事を分からせて下さろうとする訳なんです。まぁおかげを落とさせて、またおかげを拾わせる。おかげを落とさせては、またおかげを拾わせる。そういう感じが致します。けれどもこの波状形と申しますかね。おかげを受ける、心を緩めるまた下へ落ちる。
けれども次に登る時には、また少しは余計登る。そしてまた落ちる。そしてまた少し上に登るというようにね。せめてそういう信心はひとつ、身に付けて行きたいと思うですね。例えばお商売をさせて頂くのに、信心しておるから、ずうっと儲かる日儲かる年ばっかりはありません。去年はあんなにおかげ頂いたのに、今年は少し赤字が出た。お百姓しておっても何時も豊作、万作と言う事ばっかりはない。今年はもう肥料代も取れなかったと言う様な時もあるのです。
実をいうたらそれがあるから、おかげなんです。何時も一本調子に、ずうっと一途に向上の一途を辿るという様な事は、先ずは私共人間では出来ない。それはほんならたまには心が緩みますから。けども緩むと直に後へ戻るとこう仰る。今日は、ここんとこを仰ってますはね。信心がすぐに後へ戻ると。直に戻る。だから直にまた飛躍の手掛かりを頂かなければいけないと言う事です。そして同じところをうろうろ、堂々巡りじゃなくてね。波状形に言うなら登る落ちる、また登るまた落ちる。
けれども今度登る時には、もうその失敗をふんまえてですから、少しは高いところへ信心が進んでおるという様にです。だからそういうそこがまた、信心の楽しみでもあれば、喜びでもあるという事が分からなければいけない。信心しておるから神様にお取次ぎを頂いて、お願いをしておるのであるから、もうずうっと儲かることばっかりと言う事では、もうそれこそ今日はないと思う。
信心が有り難うて楽しゅうて、しかも愉快でと言う事にはならないと思う。勝ったり負けたり儲かったり損をしたり。素晴らしい出来のおかげを頂いたり、又は肥料代も取れなかったと言う様な事もあるけれども。その失敗を、繰り返し繰り返しですけれども。その失敗が少しは、身に応えていく身に付いていく、していきながらだんだん、段々向上していくという信心。
昨夜前夜祭の後に、富久信会がございます。それで昨日まぁ色々お話をさせて頂いた事でしたけれども。信心のおかげの間違いがないと言う事は、おかげを受けると言う事だけではなくて、おかげを落としたという中にも間違いがないと言う事。神様はそんなに間違いがないと言う事は、神様の働きに間違いがないと言う事です。昨日中近畿の大阪方面の教務所長、それに先生方が二人三人の先生方がここへ見えられました。
そして私はもう本当に驚きましたことでしたけれども、ひょっとすると毎日御理解を頂いておられる、皆さんよりも合楽の信心を詳しく勉強しておられると言う事に驚きました。そして私も気が付かないことを、色々お話の中にはぁ合楽の信心は、そんなところがあるかいなと思うて感心したことでした。合楽の信心のまぁ素晴らしさというのは、助かりの理念であると言う事です。その理念がはっきり確立しておると言う事なんです。いうならば、私が何時も申しますように。
合楽理念はいうならば金光教の信心の完璧の域に入ったんだとこう言われておる。完璧と言う事じゃない。完璧の域に入った。だからこれを進めていけば、間違いなく生神金光大神という、いうなら金光大神の世界に、間違いなく辿っていけれるんだ。あぁでもなかろうかこうでもなかろうかと言う様に、迷う事がない。そこをまぁ合楽理念は、もう実に分かりやすく説いてあるとこう言うのです。所長先生は非常に教学者なんです。ですからまぁ教学の大家と言われた、高橋正雄先生の教えを頂いておられる。
皆さんご承知かどうか知りませんけれども、もう亡くなられてだいぶんになられましょうが、アメリカのサンフランシスコに福田と言う、非常にまぁ学もあればお徳もあるというようなまぁその学徳、神徳を身に付けられた先生がおられました。アメリカに渡られてアメリカに現在、金光教の信心が広がった元を取られたという先生です。ですから先生が帰ってこられると、何時も当時高橋正雄先生と、まぁ信心の上でのまぁ討論ですかね。神徳形というなら教学形の話が何時もこう食い違う。
いつもまぁどちらが本当かと皆が興味津々、その討論を聞いておりますと、もう実に素晴らしい話が出ておりました。その福田先生の話をしておられましたが、福田先生も絶対信と言う事を言っておられますですね。絶対信絶対間違いがないという意味なんです。ところが福田先生の絶対信と言うのは、これは信過剰だと。いわば信心がいわゆる、それが過剰の所があったと。まぁ先生の信心を批判するとそう言う事になる。そう言う所を高橋先生は、こうやって突っ込んでいかれた教学で。
ところが合楽の信心は合楽理念は。また私が合楽理念を説くときに、完璧の域に入ったとか。この道がもう絶対だと言う事を、私が先生のテープを沢山に聞いておられます。だからそのその中にです。その先生が、絶対絶対と言う事を、沢山使われる。ところが合楽の先生が説かれるところの、絶対と言うのはね次の絶対を、絶対にするための絶対だという風に言われるんです。私はちょっと分からなかったんです。
例えて言うと私の信心を、例えばここ十年なら十年の信心を、まぁ振り返って見ますとですね。その時点時点でこれが絶対だと言ってます。けれども先生の絶対には、次の絶対を頂くための絶対だとこう言うのです。まぁ分りやすく言うと、合楽でも盛んに表行を。言うなら断食をしたり水をかぶったりと言う様な事は、もう茶飯事のように皆さん一生懸命、打ち込む方達はみんな致しました。それがひとたびそれよりより本当な事が分かると。もう表行と言うものを全廃して、そして心行一つに進んでいくと。
その言うならば一年前には、その事が絶対であったけれども、一年後にはもうそれは絶対じゃなくて、現在言ってる事が絶対なんだ。だから合楽の絶対は楽しみがあると言うわけ。次にまた次の絶対が生まれて来るんだと、と言う意味の事をまぁもっと詳しく色々話しておられるのを、まぁ聞かせて合楽理念を、こちらがまた拝聴するよう感じでした。そして有難い事はあの合楽で先生が言っておられる事は、その高橋正雄先生が、まぁ極めた上にも極められた金光大神の信心を、教学なさって様々な素晴らしい。
普通のものでは分け入って行くことの出来ないところまで、教学を高められた方である。それをあの合楽の先生はその助かる理念という。助かるという実証を示しながら、金光大神の信心の奥牙へ進んでおられて、そして高橋正雄先生の教学と、合楽の信心とが最後には必ず、一つになるというどの問題をとっても、どのお話を頂いても。だからこう言う素晴らしい信心は、まぁかって無かったとこう言う。
今教団で百年祭を目指して一生懸命、それこそ実意丁寧愛の心を持って、人へ伝えて行く。少しでも信者が増えなければならないという運動が起こっておるのですけれども、それとは反対に増えるどころか減っておるような現状。もう金光教もこれより後ろには下られんと言うまぁ一つの話を聞いておると一つの危機感を。いよいよこの金光教はこのまま行ったらどうなるかと言うような、危ぶまれるような状態にあるんだと。ですから今こそ合楽の信心が世に問われ、また合楽の信心をもって中央に。
もういわゆる合楽の先生達が言われる。この道を行けば絶対人が助かる、自分も助かる。道は広がっていくというその絶対の信心をです。教団のいわゆる中にです言うなら中心に中央に持って行かなければならない。そこで中近畿の先生方が打って一丸となって、合楽の信心を研修しだした。まぁ今日本一の先生と言われておられる、泉尾の三宅先生にもご相談させて頂いた。どうでも一つ合楽の信心を、全教の者が分からせて頂くために。教団に言うならばその事を呼びかける、話しかけていかなければならない。
それにはね合楽の信心を、もっともっと深く広く分らなければいけない。それで合楽の先生に来年の九月に、まぁお話に来てもらうと言う事を、何回も何回も足を運ばれて、先生方が私が絶対他所へ行かないことを知ってあるもんですから。それを無理に動かそうと言うのですから。いわば本当にその熱意に私も驚きました、感心しましたが。三宅先生にその事を相談した。ところがそれこそ一心真を持って、皆さんが行かれるならば、合楽の先生は必ず大阪のほうへも見えますよ。お話に見えますよと。
その為にはその真心を込めての事でなからにゃならんという風に、まぁ頂いてそれこそ真心込めての、言うならばいわばご依頼に昨日も見えたわけです。それで合楽の信心がこれだけ素晴らしいんだと言うて、中央に持って行けばほんなら中央には、ほんならまぁ信心の大変高尚な、偉い先生方が沢山おられますから。例えばそれはほんならどうか、これはこうかと言うて質問を受けて、言うならまぁ言うなら突っ込まれた時にそれに対する、合楽の信心で答弁の出来るまでに、合楽の信心を極めとかねばいけない。
そん為には今度講演会が持たれる。それは講師を私になさると言うわけでしょうけれども、ただ一日ぐらい先生の話を聞いて、分ろうとは思われない。そこでそのために委員が八名出来た。その八名の先生方が三回に分けて、合楽に三日間ぐらい三泊ぐらいのお願いが出来るなら、泊めて頂いて合楽の信心を一切じかに勉強したいと、こういう相談も昨日ございました。だから八人の方が三日間ずっと、三パ二十四、二十四日間ここで修行されたことになるわけです。
大体一月間ここにおれば、大体合楽の信心もより深く、広く分かる事が出来るだろうと。そしてどういう風にほんなら、質問されてもそれに答弁が出来るだけのものを持って行かなければならない。泉尾の先生が言われる事には、ほんなら、合楽の信心を中央に持って行こうと。持って行くからには、必ずそれを通さなければいけない。刀を抜いたなら相手を、必ず切らなければいけない。為にはこちらがもっと実力を作っとかなければ駄目ですよという風に、まぁ言われたと言う事でございます。
まぁ話がちょっと横道に反れたようでしたけれども。そういうほんなら完璧だとか。絶対とかというほんなら、私もそれを信じておりますが、そういうほんなら合楽の信心であってもです。生身を持っておる人間のことですから、何時も張る弓のようにしゃんとこう、しとるわけにはいけない事もあります。気が緩みます。けれども気が緩むと直に後へ戻るとこう言っておられます。けどもその直に後へ戻ると言う事は、そのままその事も神様の御働きだと言う事でございます。
はぁご無礼をした。言うならばですね八十節の中から、言葉を頂きますと。不都合不行き届きとこう言っておられますね。人間に例えば油断が出来ると、必ず不都合な事になり、不行き届きな事になる。だから不都合の無い、不行き届きのないと言う事は、先ずは人間生身をもっておる以上出来ない。いやそれがある事をです。神様はちゃんとご承知なんだと。そこでほんなら私共がご無礼致しました。不都合な事になりました。不行き届きのことでしたと、詫びる姿勢を持ってです。
この次には失敗は致しませんと言う様な、ここまで信心が伸びた。そして不行き届き、ちょっと心の油断から少し落ちた。落ちたけれどもその事をもって、次のも少し高い信心に引き揚げて頂く事の為に、この直に戻るぞと言う事もあると言う事でございます。自分でそこに自覚が出来る。はぁこの頃ちょっと油断しとったら、自分の信心が落ちてることに気が付いた。これではならんとこう心の中に、また固く誓うものが出来てくる。それが今までは出来なかった信心が、そこから出来てくるようになる。
これは不思議です。人間の心の中に卑しい心が一杯あります、だからその卑しい心に取り組むのですけれども。卑しい心があるからこそ、信心が進むと言う事もあるです。卑しい心のお知らせを、馬のお知らせを頂く時には、卑しい心だと言われます。馬を二つあわせると、うまうまと言う。うまうまと言う事は、まぁ卑しい心だという風に表現されます。ですから私共にはそういう卑しい心があって、言うならばおかげを落とすけれども。その落としたからこそ言うならば。
普通の人間では通れないところを、馬に乗って通れば通られると言う様なところがあると言う事です。だから人間の卑しい心を、神様は利用して次の言うならば、普通では登れないところ、普通では通れないところを通らせて下さろうとするような働きがあると言う事です。如何に完璧だとか、又は絶対という風に言うとっても、合楽で先生が言われる絶対と言うのは、次の絶対があるから楽しいんだと言うのです。例えばこれが絶対だと。それが絶対ですけれどもそれを油断をするおかげを落とす。
言うならおかげを落とすというか、信心が少し緩んでくる。そすと次にはまた言うならば、卑しい心でおかげを落としたら、その卑しい馬に乗って普通では通れんところを通る。まぁそれを合楽ではまぁお詫びの印にといった様な事がありますね。自分であぁこれは不都合不行き届きであったと気が付いたら、真剣にお詫びをする。そこで普通では出来ない信心修行も、お詫びの印にと言うような信心が出来ます。ですからそこから次の飛躍を、普通では通れない様な所を通らせて頂けれる。
あれは昔何とかという侍が、ある戦場で婦人の危機を救う助けるのです。ところがその婦人は大変その綺麗な人だった訳です。そしてその人に恋慕するんです。それでその自分と一緒になってくれという風に申しますけれども。その命を助けて頂いた恩人だから、もう再三断りますけれども、もうとにかく執拗に迫られるわけです。そこでそのあれは何だったか、袈裟御前とか言いましたですね。そのそんなら今夜ここの部屋に、自分が休んでおるから偲んできてくれとこう言われる。
そしてそのためには、自分の主人がおってはね出来んから、自分の主人を殺してくれと。うちの主人はどこの部屋に休んでおるから、主人を殺してくれとこう言う。それでその主人を殺してからでも、その人と一緒になりたい一心でその部屋に偲んで、その人を殺しましたところが、そこにはその女の人が休んでおった。そん時にもうそれこそもう大変な、まぁショックだった訳ですね。けれどもそのおかげでその人はお坊さんになります。そして大変その有名なお坊さんになられる。
そういう例えば失敗がなからなければです。自分が仏道に精進しようとか頭を丸めようとか。そして沢山な人が助かることの為に精進するという様な事は、出来なかったでしょう。人間のそれこそ赤裸々なその凡情で、そこは罪も無いものを殺すことに、結果はなりましたけれども。それで一心発起したわけです。そして普通ではとても、なせそうにはないような、厳しい修行をさせて貰うて人が助かるような、その有名なお坊さんになられたと言う。何とか聖人と言うですかね。
そういうあのこれは歴史上にもあるお話なんです。そういう極端な事ではなくてもです。私共は油断が出来たお粗末になった、ご無礼が出来たと気が付かせて頂きますとです。はぁこれはお粗末ご無礼であったと気が付いて、そのお詫びの印に、今まで、出来なかった修行が出来るような。人間の心にはそういう心があるんです。一心発起するとどう言う事でも出来るんですけれども、なかなか一心発起が出来ない。けれども神様を信ずる。神様が分かれば分かるほど。
人間のお粗末ご無礼と言うものに気が付いた時に、そのお粗末ご無礼の、お詫びの印の信心が出来て、そう言う様な事が、繰り返し繰り返しなされていくうちに、波状形に段々少しずつ、進んで登っていけれるという手立てである信心はね。だからこれも神様の言うならば、お働きの中に神様が油断させなさると言う様な感じの所がございます。気を緩める、すぐに後へ戻るぞと。
ほんな気を緩めんというわけには参りません。だから緩める。そこほんなおかげを落とす様な所もありますけれども。信心は段々分かってくると、そこがまた有難いんだと。お百姓しとっても万作豊作という様な事ばっかりは無い。もう今年は肥料代も取れじゃったと言う様な時もあるけれどもです。お商売しとってもはぁ今日も儲かった、明日も儲かると言った様な事ばっかりではない。
赤字が出たり黒字が出たりですけれども、そこんところに言うならば、楽しみと言うか、喜びと言うものはあるもんだと。ずうっと儲かるばっかりずうっと良う出来ることばっかり、ずうっとおかげの頂きっぱなしと言った様な事は、却ってそれは有難くして、楽しゅうして、しかも愉快にと言った様な事にはならない。信心を楽しゅういよいよ有難く、しかも愉快にという様なおかげを頂く。
昨日の御理解でしたかね。ある方が夫婦喧嘩をして、はぁ信心とはこんなにも愉快なもんだろうかに気が付いたと言う様にです。いわば愉快な楽しい、そして有難い信心とは、そういう言うならば、出来たり出来なかったりと言うところに有難い。しかもほんなら堂々巡りじゃなくて、出来たり出来なかったり。次に出来る時にはもう少しはましな信心が出来ておるという様なおかげを頂いて行きたいですね。
どうぞ。